下町のえんぴつやさん

綴る作業をするたびに気づく、内向的なわたし。

第21話 目を背けてはいけないもの

昔からジブリの映画が大好きだった。

 

 

父方の祖父母の家に泊まりに行って、

寝る時間になると、

 

祖母は姉と一緒にサスペンスドラマを見て、

祖父はわたしに付き合って毎晩ジブリ映画を一緒にみてくれた。

 

 

 

 

となりのトトロ」とか

ホーホケキョ となりの山田くん」とか

(意図せず「となり」シリーズ笑)

 

ほっこり映画が好きだった。

 

 

 

 

わたしは同じ映画を

何度も、何度も、何度も何度も、観てしまう。

 

トトロは100回を超えていると思うし、

ハリーポッターシリーズも、

何周したかわからないくらい。

 

 

 

結末がわかっている安心感と、

大切な何かを見落としているような焦燥感。

 

見続けるのはそれが理由だ。

 

 

 

 

 

 

 

祖父はほとんど何も言わずに

映画を見てくれていたが、

 

「たまには、ちゃう映画もみたらどうや?

ほら、これもジブリやねんで。」と言われて

 

もののけ姫

天空の城ラピュタ

風の谷のナウシカ

といった、

大人になった今なら「名作」と思うそれらを

一緒に観ようと試みてくれた。

 

 

 

ただ、全部怖かった。

 

ラピュタはかろうじて観ることができた。

でも武器が多いし、人が死ぬし、

ムスカの目が怖かった。

 

 

 

 

もののけ姫なんて論外だ。

開始5分で化け物の中の化け物が

森の中から出てくる。

 

(えっ、身体からなんか噴射してる……)

と思ったのを忘れてないし、

 

血まみれのイノシシや

喋る巨大な犬。

アシタカは鉄砲で胸を貫かれ、

サンは口で血を吸う。

 

ただただ、怖かった。

 

 

 

 

 

ナウシカは、

"ティト"と名付けられた動物は

かわいいなあと思っていたけど、

 

巨大なダンゴムシ(王蟲)と

巨大な化け物(巨神兵)が

トラウマだった。

 

 

保育所で、

友達と一緒になってダンゴムシを大量に集めて

掘った穴に入れて埋めたりしていたので

(子どもって残酷・・・)

王蟲の襲撃はわたしにとって脅威だった。

 

 

とにかくなんであんなに虫が出てくるのかがわからず、

率先してみることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

そういうわけで、

わたしはトトロと山田くんに

となりにいてもらうのが好きで

 

結局祖父のとなりにも

トトロと山田くんがいる羽目になった。

 

 

 

 

 

 

 

そんな風に映画をみながら寝る機会は

両親の離婚によって無くなってしまうけれど、

 

 

小学4年生になれはわたしも

自分でビデオの再生ができるようになっていて、

 

鍵っ子だったわたしは

部活で遅くなる姉の不在をいいことに、

ジブリ映画に没頭した。

 

 

 

 

その頃にはもう、

ナウシカもののけ姫も怖いとは思わなかったけど、

 

話はやっぱりよくわからなくて、

それでも何かを見落としてる焦燥感を

解消しようと見続けた。

 

 

 

 

 

大人になるにつれて、

色んな経験をして

色んな価値観を知って、

 

こんな風に生きていきたいなというのが明確になると、

 

子どもの頃親しんでいたものに対して

懐かしさを感じるようになる。

 

 

 

 

 

ジブリ映画が映画館でやってる!

と情報が入った時に絶対行きたいと思った。

 

 

王蟲が怖いから、と

見るのを避けていた「風の谷のナウシカ」を

絶対みたいと思った。

 

 

 

 

 

あんなにも怖かった王蟲巨神兵が、

 

大人になったわたしにとって

“怖くて目を背けたくなるもの”

ではなく

“絶対に目を背けてはいけないもの”になっていた。

 

 

 

 

武力で押さえつけようとする人。

住む場所を奪われて怒っている生き物。

 

 

人間は昔から、自分よりも強い何かに怯え、それを排除しようとしてきた。

 

それによって今の時代を生きるわたしたちは、

快適な暮らしを送れている。

 

 

 

 

 

 

 

もののけ姫」で、

 

 

シシ神様の首取りのために軍をなすエボシに対して、

アシタカが

たたらがよその国の侍に襲われたことを伝えに行く。

 

「森とたたら場、双方生きる道はないのか!」

とアシタカが叫ぶ。

シシガミ様の首をとる前にやることがあるやろ!と。

 

首を取る、という行為は人間界のルールなだけで、

神様であるシシガミ様には結局それは通用しない。

 

 

 

 

ナウシカも、アシタカも、

ただ自然と共に生きたいと思っていて、

それができるはずなのに

 

なんで目先のメリットしか考えないんだろう

って、

思ってると思う。

 

 

 

自然には抗えない。

今でいうと、どんなに脅威的なウイルスでも排除できない。

 

 

だから、どうやって生きていく?

という話し合いが必要。

 

ナウシカも「待って!話を聞いて!」って言うし、

アシタカも「話がしたい。」って言ってる。

 

 

 

地位の特権とか、知識の押し付け合いじゃなくて、

自分の気持ちを話すってすごく怖いけど、

 

人ってそれができる生き物だから。

言葉という明確な力を持っているから。

 

そこから逃げちゃいけないと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

ジブリ作品には随分と助けられてきた。

目が覚めたら

千と千尋の世界が広がってないかなあ、とか、

明日もしかしたら、キキみたいに空を飛べるかもしれない、とか、

いろんな想像をして育ってきた。

 

トトロは山の奥で眠っているだろうし、

立ち入り禁止の荒地にはハウルの城があるんだと信じている。

 

 

 

 

そんな日々です。

今日、不思議な世界をみました。

 

 

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この運転士さんはもしかしたら

とんでもない世界に連れて来てくれたのかもしれない。

 

 

第20話 3つの嫌いなもの

 


大学4回生のとき。

 

 

 

 


授業で、

 


「嫌いな物事、概念を3つ発表し合って下さい」

 


というお題で話し合った。

 

 

 

 


わたしは隣の男の子と

ペアになって話すことになった。

(それまで話したことがなかった子でした)

 

 

 

 


わたしからは、

 


歩きタバコ

(タバコの煙が非喫煙者にかかるかもって考えへんのかなあ〜、と思ってしまう。)

・戦争

(単純に不必要だと思ってる。)

・満員電車

(身動きが取れないのが苦痛。赤の他人と密着はもっと苦痛。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしが嫌いなものに対して、ペアになった彼は、

 


歩きタバコ→「あ、僕やります。」

(えっ!気まず!)

・戦争→「え、必要じゃないですか?力を提示するのは大切なことですよ?」

(まじか。)

・満員電車→「あー、まあそこまで苦痛じゃないかな、仕方ないことだし。」

(おー、、そうか〜。。)

 

 

 

というコメントをくれました。

 

 

 

 

 

 

彼が挙げたもの全ては覚えてないけど、

「想像だけで話を進めてしまう人」

と言われて、

 


(え、わたしやん笑)

ってなったのはよく覚えています。笑

 

 

 

 

 

 

こんなに気が合わない人がいるのかあ……

と気付かされて、それから

授業で会っても話すことはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4月の緊急事態宣言で、

職場でも「自宅研修」という名の休みの日ができて

週2,3日の勤務になった。

 

 

在宅勤務の会社もあって、

いつもぎゅうぎゅうに詰め込まれていた電車は

通勤時間でも座れるほどになった。

 

 


マスク必須、喋るのも憚られる空間とはいえ、

赤の他人と密着状態にならなくていい安心感があった。

 

 

 

 

 

 

5月に入ると週4日勤務になり、

電車の人口は多少増えたものの

逃げ出したくなるほどでもなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それが宣言解除と共に

電車の密度はどんどん濃くなり、

6月に入って学生も増えて、

 

「日常」が戻ってきましたよ〜っ!

っていう感じ。

 


 

 

 


その「日常」に違和感を感じている。

 

 

 

 

 

 

 


職場の最寄り駅を降りると、

歩きタバコの多いこと多いこと。

 

コロナが招いた混乱自体には

あまりストレスを感じなかったけど、

 

 

 

 

「わたし、満員電車まじで嫌いやわ」

と思ってあの授業を思い出した。

 

今まで「日常」として過ごしていた毎日が

嫌なものトップ2に囲まれていたことに気づいてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 


とはいいつつ、仕事は行かねば。

 

学校再開とともに、業務に忙殺されている。

 


欠員が出た上に業務量は増える一方で、

しわ寄せはでかい。

 

 

 

 

 


でも、

業務量、人間関係には

意外と耐えることができていて、

 

 

 


ほんとうに、

満員電車と歩きタバコ

そして都会のゴミの多さも加わって

不快な気持ちで通勤している。

 

 

 

 


2月末に休校が決まってから

バタバタバタ!と過ごした年度末。

 


そのあたりから蕁麻疹に毎晩苦しめられ、

 

「コロナ休み」の間は少し落ち着いていたけど、

 

日常に違和感がでてきた今は、また蕁麻疹がでています。

 

 


わたしの身体はほんとうに、ストレスに正直だなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに、

3つの嫌いなもの発表の意図は、

「好きなものは被りやすい。そして合わせやすい。

でも、嫌いなものが一致する人とは

本質の部分で気が合います。」


ということだった。

 

 

 

 

 

 

 


パートナーや親友、家族と、

嫌いなものが一致しなくても、


共有することで

お互いを理解し合うための材料になると思う。

 

 

 

 

 


周りの人、環境に左右されやすい人は特に、

自分のテンションが下がるものを知っておくと

落ち込む前に対処できるようになる。

 

「自分とのパートナーシップ」って

教えてもらってから

自分優先にできることが増えてきた……かな?

 

 

 

 

 

 

 

 

満員電車でも楽しめるように

わたしの場合は、好きな音楽をブックマークして

嫌々つけてるマスクの下で歌いながら通勤しているし、

 


それと同時に、

 

 


あのペアになった彼は嫌いって言ってたけど、

豊かな想像力をつかって

勝手にものがたりを進めています。笑

 

 

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自分への課題として、

文を書く練習も兼ねて

週1回のペースでブログを更新することにしました。

 

 

 

ハナビのみなさんと約束したから

多分守れると思う\( ¨̮ )/

第19話 お父さん

 

音楽を聞いて泣くことがある。

失恋ソングに共感したり、クラシックのメロディの美しさに感涙することもある。

 

 

昨年の秋ごろ、Funkistの染谷西郷さんのアコースティックライブに行って"Hello"という曲に出会った。

 

「僕は照れながら言ったんだ 「パパだよ」って」とか

「どんな時も いつまでも 僕は君の味方でいるから」とか

っていう歌詞があって、親が子を想い、愛する気持ちを容易に想像することができる。

 

 

 

初めてこの曲を聞いたとき、わたしは泣いたんだけど、ただ感動して出す涙ではなかった。

息ができない類の、苦しい涙。

わたしはその理由を本当は知っていたし、だからこそ、今まで避けてきたように「なんでこんなに泣いてるのか」考えるのをやめた。

 

 

 

 

 

 

 

5年前、父が亡くなった。


「父はもう亡くなっていて…」と言うと「あっ、ごめんなさい!」となるので(自分も逆だったらそうなるし)あまり人には言わないようにしてる。

わたしが9歳のときに両親は離婚して、家に父がいないことには慣れている。
ただ、西加奈子さんの「こうふく みどりの」から表現をお借りすると、“「おるのにおらん」のと、「おらん」のとでは、違う。”


例えば生徒と話してるときに出てくる“お父さん”という言葉と、わたしが父を呼ぶ時のそれとは異なっていて、

わたしは5年前、父とは永遠に会えない現実をこころの奥にしまい、結果的に「お父さん」と呼ぶことを封印した。

父は帰って来ない。
呼んだところで父には会えない。
頭で理解していても、こころが理解を拒んでいた。







わたしは父のことが大好きだった。

母は優しさ故の厳しい雰囲気があり、それがわたしを緊張させるので、トトロみたいに大きなお腹を揺らして笑い飛ばしてくれる父のおおらかさが好きだった。
父との時間の中で、子どもながらにいごこちの良さを感じていた。


よく家族で出かけていたし、旅行にも連れて行ってもらった。お母さんが作ったご飯を家族で囲み、たくさん食べてたくさん笑った。誰から見ても幸せな家族だったと思う。

「いつか反抗期がくるから」と言われながらも父がいる日は一緒にお風呂に入っていたし、寝付くまで隣にいてもらうことが日常だった。

 

 

父はバスの運転手をしていて、夜行から帰ってきた日は1日家にいた。

学校から帰って誰かいることが嬉しくて、それが父だと更に嬉しかった。

すぐ宿題をしなくてもいいし、気兼ねなくアニメを見れるから。

なんていうか、自由だった。それだけだった。

 

それだけ、と言いつつ、その母の厳しさと父のゆるさのバランスはわたしにとって必要なものだったんだと思う。

 




ある時から父と母の間に亀裂が入り、喧嘩が増えた。

私と姉は何も出来なかった。

暗い寝室で、畳の重なる部分を見つめながらその声を聞いていた。

父は怒鳴り、物にあたった。
父の声は地響きのようで、
だからわたしは今も男の人の怒鳴り声が苦手だ。


父の浮気と、借金。離婚を決めた母。
その時の母の気持ちを考えるといたたまれない気持ちになる。

40歳手前にして、
まだ小学生だったわたしと
中学にあがる直前だった姉、
買ってまだ5年のマイホームのローンと
飼い犬のしつけと
取ったばかりの資格で仕事が変わって必死だった。


そんな重い荷物を抱えてでも離れたかった。

わたしはこんなもんじゃない、というような執念もあったと思う。


数日続いた喧嘩のあと、父は帰ってこなくなった。
9歳だったわたしは「リコン」がどういうことか、そもそも「ケッコン」もわかっていなかった。

 


その後、父とは1年に1,2回会った。
焼肉とかお好み焼きとか、父の好きなものを一緒に食べて、何を話したかも覚えていないけど

「わたしたちは、特にわたしは大丈夫です」

というアピールをしていたと思う。

父なりに愛情をもって会ってくれていたのだろうけど、だんだんと何を話せばいいかわからなくなって、会うのが気まずくなった。

「会ってあげてる」という感覚だった。

 


そんな中、わたしが小学6年生くらいの時、再婚したことを告げられた。

白髪だらけだった髪が黒くなっていた。

 

「人を好きになる」ということがどういうことかわかってきていたし、よく母が父の白髪染めをしていたけど、他にしてくれる人ができたんだなと思った。

素直に祝福はできなかったけど、わたしたちはもう3人で家族をつくっていたし、引き留める理由もなかった。

わたしはあのときちゃんと、父の幸せを願っていた。




わたしは両親が離婚した当初、友達にそれを話さなかった。

「苗字変えたらいじめられるかもしれないから。」
たしかそう言った母の言葉を真に受け、いじめられないように明るく元気に過ごすようにした。

勉強もできる方だったし、友達も多い。
ピアノだって続けている。
大丈夫、ばれてない。

根拠のない「大丈夫」を糧にわたしは毎日がんばっていた。
お父さんがいなくても全然問題ない、だから何も変わらない。



そんな矢先のこと、「新婚さんいらっしゃい」という番組に父が出演した。
わたしは見ていなかったけど、そのせいで、両親の離婚がばれた。

父は身体が大きく、父のことを覚えている友達は多かった。

隠し続けてたことが、思わぬ形でばれてしまった。

 

友達はいじめるどころか心配してくれた。
「気付かへんでごめんな。」とまで言ってくれた。



父が大嫌いになった。
誰にお願いされた訳でもないけど、守り続けていた秘密を、意図せずばらされて本当に大嫌いになってしまった。

父を好きと思う気持ちは忘れ、周りと比べることが増えた。

勝手に家を出た父を嫌ったし、憎いとさえ思った。


携帯を持つようになって連絡が取れるようになると、会う回数は更に減った。
自分の日常に、父の存在はもうなかった。






大学生になって、少しだけ意識が変わる出来事があった。


フィリピンとカンボジアに行き、スラム街に住む人たちと交流する機会があり、インタビューに応じてくれたお母さんが
「お金はないけど家族がいたらいいのよ。家族の笑顔がわたしの幸せなの。」
と話してくれた。


そんなふうに家族を捉えたことはなかった。
いて当たり前、と思ってることに気付かされた。


ないものばかり探していた。
父がいない、塾にも行けなかったし、旅行も行けてない。
全部お父さんのせいだった。

お父さんが出ていったから。お父さんが浮気したから。


でも、大学まで行かせてもらって、衣食住が整っている。

これってすごく恵まれているし、ありがたいことだった。


そうすると、お父さんは関係ないしちゃんと会わないとなあと思った。
定期的に連絡くるし、会っといた方がいいよな~、そんな感じだった。


早速、父に海外に行ったと伝えると、
「そうかあ、さえはすごいなあ。」
そうやって聞いてくれた。

父はいつも褒めてくれた。
褒めて欲しさに、褒められることしか言わなかった。
大嫌いなくせに、父に甘える自分は幼い頃のままだった。









「お父さんな、病気やねん。もう長くないねん。」
と父が告白したとき、わたしたちはお好み焼きを食べていた。

(こんなこてこてのもん食べといて、病気て言われても。)
と思ったのが最初。


「へえ…なんの病気なん?」

「なんかなあ、腸がやぶけてしまってんねん。」

「え、こんなお好み焼き食べてていいん?笑」

「いやあかんねん、でもさえはお好み焼き好きやろう?」


呆れた。
お好み焼き好きなんはお父さんやんか。




病気やのに焼肉とかお好み焼きとか食べたらあかんやん。
野菜とか食べなあかんのちゃうん。
そんなふうに心配はしたけど、わたしは自分の日常に没頭し、その合間に「入院した」「退院した」を繰り返し聞いた。

 


頻繁に連絡がきていたのをあの時は「またかー」と思っていたけど、父は寂しかったのかもしれない。
でも新しい家族おるやん、と線引きしている自分もいて、

優しくなれない自分がもっと嫌になって、父との心の距離を遠ざけた。
「新しい家族おるくせに、」と思うことで、何かから逃げる言い訳にしていたように今は思う。

思い返せば、父の頭は白髪で真っ白だった。

孤独だったのかもしれないな、わからないけど。

 

 

 

 

 






大学4回生。
卒論を書き終えた頃、また「入院した」と聞いた。

今回は長いかもしれへん。
出られへんかもしれへん。

そんなふうに言っていた。


わたしは卒業旅行とインターン活動のことでいっぱいいっぱいで、「お見舞い行かなあかんなあ」と思いながらもまた今度、また今度と後回しにしていた。



3月19日、大学の卒業式があった。
お母さんの振袖と緑色の袴。

おばあちゃんも泣いて喜んでくれた。

 

 

お父さんも喜んでくれるかな。
「卒業したよ」と写真を送ろうと思って、でも体調がよくないと言っていたのを思い出して、また今度、とそのまま忘れてしまっていた。





 

母の携帯に
「あやちゃん(姉の名前)とさえちゃん、
そろそろ病院来た方がいいと思う」
と連絡が入った。

 

5年前の3月21日。
連絡をくれたのは、両親が離婚する前まで一緒に旅行に行っていた家族のパパだった。

病院に着いて連絡すると、

病室わからんやろう、ちょっと待っときやあ
ってそのパパが言うので、待っていた。


迎えに来てくれるまで、時間が長く感じた。

15分とか、それくらいだったんだけど、すごく長かった。

 

病院のベンチに座って、足をぶらぶらした。

緊張したときの、癖。

 

 

パパに会ってからも、久しぶりやなあ、と声をかけることもできなかった。

沈黙のエレベーター。

廊下を歩くスリッパの音。

わたしたちがなぜ呼ばれたのか薄々わかっていたけど、理解した。

 


病室に入ると、「横たわる」という表現がぴったりの父がいた。
涙目でわたしを抱きしめる、父方の親戚。


「お父さん、死んだんや。」
残酷にも、たしかにそう思った。

 


死に目に間に合わなかったのではなく、死に目に間に合わないようにしてくれた。

とても言いづらそうに、
「めっちゃ苦しんでてなあ……
あやちゃんとさえちゃん呼んだら
僕が後悔すると思ったんや。」
なんか、パパにはそういうことを言われた。

医療のことはわからんけど、もう少しマシな最期にできひんかったんかと、パパは今でも話してくれる。



死んだばかりの父の顔は少し黄色く
何か言いたげに口はうっすらとあいていた。

父方、母方共に祖父は亡くなっていたので、別れには経験があった。

それでも我が父となると訳が違う。

ドラマみたいに「お父さん!」ってかけよることもできたんだろうけど、そういうことができるくらいわたしと父には思い出がなかった。

そっと父の手に触れると、まだあたたかかった。

 

ぎゅっと握っても動かない。

動揺した。


動かなかったことにではなく、わたしは父の手のぬくもりの記憶がなかった。

 

いつもよりあたたかいのか冷たいのか、わからなかった。

 

 

でも、悲しかった。

涙が止まらなかった。

 

裏切った父をほんとうに憎んでいたし、

でも大好きだったことも事実で、

 

その感情はあまりにも、複雑過ぎた。

 

 

 

両親が離婚した9歳の頃から、わたしは事実だけを受け入れて、感情を置き去りにしてきた。

 

もう絶対に開かない目にむかって、卒業式の写真を見せてあげた。

もう一度手を握って、頬に触れて、それからお通夜でもお葬式でも父に触れることはなく、父は空に昇った。

 

 

 

 

 

 

 

 

楽しい、嬉しい、幸せ!と思う気持ちは人一倍大きいくせに、でも「絶対続かない。」と思っている自分がいる。

 

そんな尊い幸せな時間を、自分から終わらせる時もある。

 

誰かとお付き合いすると特にそう。

わたしは、大事にされればされるほど自分から離れる変なやつだ。

 

父が離れていったことは私の中でトラウマになっているようで、「幸せは続かない」という固定観念がある。

 

 

 

 

今まで何とも思ってなかったはずの両親の離婚が、自分にとって根深くこころに突き刺さっていて正直どうしようもない。

 

どうしようもないけれど、どうにかしようとする必要もないのかな、とか思ったりする。

わたしは父の愛情を知らないというか覚えてないし、知る機会ももうない。

 

 

 

冒頭に書いた"Hello"を聴くとあんなにも苦しい理由は、

お父さんという存在はこんなにも娘のことを想うことができる人物である

ということを知ったからだと思う。

 

そんなふうに愛されてる西郷さんの娘さんが羨ましくて仕方がない。

そんな幸せな光景がずっと続けばいいと思うし、同時に壊れないか不安でいっぱいになる。

 

 

 

 

父が亡くなってからの5年間、「しんどい」と言いながら、この先に幸せが待っている!と信じて走り続けていたような気がする。

何かを追いかけるように、そして何かに追われるように走り続けていたけど、

どうがんばっても幸せには辿りつかないような気がして諦めたくなっていた。

 

 

 

でも毎年この時期に「いのち」について考えるきっかけがあって、それが自分のお父さんだと考えると、諦めるのは少し違った。

 

5回目にしてちゃんと向き合うと、わたしが望んでいた、ほしくてほしくて仕方なかった「幸せ」はたくさんあった。

 

 

 

家族がいること。

仲間がいること。

友達が笑ってること。

友達の子どもたちが元気に育っていること。

生徒たちが心を開いてくれること。

 

わたしはそんな大切な人たちを思う存分抱きしめることができること。

 

 

誰かの愛情とぬくもりがほしくて探し求めていたけど、愛情もぬくもりも、わたしの中にちゃんとあった。

大切な人たちを抱きしめるように自分を大切にするっていう、

そんな単純なことに、27歳にしてやっと気づいた。

 

お父さんからもお母さんからも、ちゃんと愛情をもらってわたしは育ってきた。

 

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父との写真はものすごく少ない。

でも、2歳を迎えたばかりの小さなわたしを見守るこの父をみつけたとき、

複雑に、針金のように絡み合ってとれなかった感情がほろほろとほどけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

まだ、お父さんのことについてこころの整理はついていないけど、

5年目にしてやっとこんなふうに書くことができるようになって、

おだやかに3月21日を迎えられそうです。

 

そういえば昨日、生まれてから10000日を迎えました。

20000日も無事にむかえたいなあ。

 

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ほんとうは明るくておちゃめなわたし。

もう悲しすぎる涙は流したくないなあ。

どうせ泣くなら、感動して喜んで泣いていたいなあ。

 

 

 

 

 

 

 

数日前、帰り道に流れ星をみました。

豊能町の柔らかい黒い空に、すーーっと流れる流れ星。

 

「住みたい!」と思って思い切って引っ越してきたこの町が

わたしにとって少しずつ大切な場所になりつつあります。

誰に似たのかわからないこの不思議な感受性をはぐくみながら、

落ち込んだり、幸せをみつけながらゆっくり生きていこうって、思っています。

 

第18話 1ヶ月後に絶対わたしに会えて良かったと思うから

 

 

1月末頃、世間がまだコロナウイルスにそんなに敏感ではなかった頃。

 


わたしがまだハナビ(今住んでるシェアハウス)に住んでなかった頃。

 


実家から職場まで、永遠に人混みにもまれてた頃。

 

 

 

 

 

 

12月くらいから

 


朝起きたら涙が止まらない、

吐き気が止まらない、

でも仕事には行かなきゃいけない

という状態が続き、

 

 

 

 

 

 

年末年始の休みも、

実家のしきたりのおかげでバタバタと過ぎていき、

 

仕事始めにノロウイルス

 

 

 

 

 

身体が悲鳴をあげていて、同時にこころも限界を迎えていました。

 

 

 

 

 

 

 

ほんとうはそれに気づいていたけど、

だって生徒のためだし休めないし、

 


でも息抜きしないとやってらんないし

家は窮屈であんまり帰りたくないな、と、

 

 

 


全てに悲観的になってて、

1月末に「もう嫌だ」の発作がでて

仕事を2日休みました。

 

 

 

 

試験監督があったのに休んでしまった。


行こうと思うのに駅で苦しくなって泣いちゃう。

もう無理や、教師失格。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


と、大丸百貨店の横のベンチで

隠れてめそめそ泣いていたら

 

 

 

「ねえ、お姉さん、わたしここに行きたいの。


行き方教えてくれる?」

 

 

 

 

 

 

と声をかけてきた人がいた。

 

 

 

 

 

 

 


顔をあげたら綺麗な白髪のおばあちゃん。

 

 

 

 

人通りの少ないところで、わざわざ端っこで泣いてたのに、他にも若そうな人はいるのに、なんでわたしに。

 

 

 


「わたしね、ここ、

この〇〇クリニックに行きたいの。


1回行ったことあるのよ、でも忘れちゃってね。


教えて…あらっ、あなた泣いてるの?」

 

 

 

 

 

 

白内障で少し白くなった目が

離してくれなかった。

 

 

〇〇クリニックまでご案内することになって、

 

 

 

「わたしは、


旦那にいつまでも雇われとったらあかーん!

言うて、企業させたのよ。

わたしも働いてたけど家計が苦しかったの。


お母ちゃんにはかなわんわーって今でも言われるわ。

でも企業したのはわたしの旦那さん。

今は40人の従業員がいて、今も現役やのよ。」

 

 

 


「いい?

泣き虫な女にはね、

そこにつけ込んでくるわるーい男がおるの。


だからね、泣いたらあかん。

泣いたらあかんのよ女は。」

 

 

 

 

 


そういう話をしながら歩いた。

 

 

 

 


お名前も何も聞かれなかったし、

また会いましょうねって言われるかと思ったけど、

 


「わたしね、縁がある人とはまた会えると信じてるの。


泣いたらあかんよ、女はね。


1ヶ月後に

"あのおばあちゃんに会えてよかった"

と思う日がくるわ。


それまで楽しみにしててね。

またご縁があったら会えるからね。」

 

 

 

 

 

 

 


そう言って別れました。

 

 

 

 

 

 

 


ああ、今日はゆっくり寝たいのにまぶしいなあ

と思わせる夏の朝の太陽みたいな、


ピカーーーっと光るパワーがあって、

 

それでいて、

 

 


なんかここ好きやなあ、古いけど雰囲気がええわあ

と思わせる古い喫茶店にいるような、


ぽかぽかとあたたかくなる人でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

気がついたらあの日から1ヶ月経っていて

 


さっき

ふとそのおばあちゃんのことを思い出したので

 


ブログを書こうと思ったんです。

 

 

 

 

 

 

わたしは泣き虫です。

 


泣きたくなくても泣いてしまう。

泣かないと気が済まない。

 

 

 

 

 

 


だからあのときは

「いいやんか、泣きたいんやから泣かせてよ。」

と思ってた。

 

 

 

 

今になってあのおばあちゃんの

言葉ひとつひとつが

わたしに届き始めた。

 

 

 

 


泣いても何も始まらない。

終わらせることもできない。

ぐっと堪える力をつけなさい。

自分で道を開きなさい。

 


ってことやったんかな、と今では思う。

 

 

 

 

 

 

 

わたしはこんな感じで

「人」にずいぶん救われてきた。

 

今回みたいな

そんなことあるー!?っていうことに

何回も出会ってきた。

 

 

それはだいたい知らない人で

おばあちゃんが昔から

 

「人に道を聞かれる人になりなさい」

と言っていたとおり

 

よく道を聞かれるし

その度に感謝されて

こころからあたたかくなれる。

 

 

 

 

 

 

 

実は、

ちょうどくすぶっていた何かに

ようやく火がついて、

 

その火は申し訳なさそうにチロチロと燃えていたけど

やりたくなり始めた時だったから、

 

 


あんた、

泣く元気あったら他のことにエネルギー使いなさいよ

 


と言ってくれたんだと自分なりに解釈して

 

 

 

 

 

 

こんなふうに文を綴ったり


詩をつくったり


絵を描いたりすることに


力を注ごう。

 

 

 

 

 


そうしていつか


誰かが嫌々仕事や学校に行く前に

後押しできるような絵とことばを


玄関に置いときたくなるような絵とことばを

 

 


いずれ「あなた」になる誰かに

届けたいなと思います。

 

 

 

 

 

 


それができたら、

 

また会えると思います。

あのおばあちゃんに。

 

 

 

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4年前に模写してた「つみきのいえ」。

この作品、愛に溢れてて好きだなあ(。ᵕᴗᵕ。)

 

 

 

 

第17話 情報の断捨離

 


わたしは、気持ちと一緒に生きてきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


というと

何言い出したんやこの子は!

も思われそうですが、

 

ほんとうにほんとうに、

そうしてきました。

 

 

 

 

 

これが好き、だからやりたい。

これは嫌い、だからやりたくない。

 


簡単に言えばただのわがままで

我が強いだけだけど。

 

 

 

 

 

 

子どもって、

特に小学校低学年ぐらいまでの子どもたちって

 

思いのままに生きるの上手な子が

多いなって思いませんか?

 

 

 

大人になると、

思いのままに生きるのは、

誰に言われたわけじゃないけどなんとなく

「ダメなこと」になっていって、

 

ああ嫌だなあと思いながらでも

やらなきゃいけないことが多い。

 

それが「社会」というものだよ、

と言われればそれまでですが。

 

 

 

 

 

 

 

 

そしてわたしは、

気持ちと一緒に生きてきたのと同時に

たくさん寝て生きてきました。

 

 

眠い、と思ったら電車でもどこでも

眠っていたし

(さすがにバイトとか仕事中は寝てないけど!)

 

 


睡眠時間を削ってまで

遊んだりもしてきませんでした。


だって眠いんだもの。

 

 

 

 

 

 

なのに、


先月の最後の方はしばらく

上手に眠れなかった。

 

 

 

お布団に入ったら2分で寝れるはずなのに

 

1時間たっても


2時間たっても

 


なかなか眠れなくて


それがだんだん焦りに変わって

 

 

 

結局2時間しか寝てないのに

仕事に行かなきゃ~

ってなって

 

 


仕事中は寝ちゃダメだ~

ってなって

 

 

 

夜になって今日は上手に寝れるかな~?

って思って


余計に眠れなくて。

(今は毎日ぐっすりです。)

 

 

 

 

 

眠るのも、

子どもたちって上手だと思いませんか?

 

 

 

 

 

 


みんな元子どもだから

気持ちと生きるのも

眠るのも


上手なはずなんですよ。

 

 

 

 

 


毎日毎日、

好き!嫌い!の判断で全力で生きて


全力で寝て、


一生懸命いろんなことを覚えてる

子どもたち

 

だったわたしたち。

 

 


いつから

子どもだったわたしは

生きるのが下手になったのか。

 

 

どこかの歌詞にありそうだけど

これが大人になるってことなのかな?

って考えてみたり。

 

 

 

 

 

 

 


それでわたし、下手になった理由を考えてみました。

 

 

 

ああそっか、多分人と比べるからだ。

へんな情報ばっかり目にするからだ。


と思いました。

 

 

それはほとんど、スマホからの情報でした。

 

 

 

 

 

 

25歳をこえると女性の身体には変化がおきて、

時期を逃すと子どもができにくくなる

 

とかっていういい加減な記事とか

 

 


気になる彼はあなたのここをみてるよ!


っていう広告とか

 

 

 

友達のキラキラした日常が切り取られた写真を

 

ただただ「いいなあ」って傍観したりとか

 

 

 

 

 

 

 

あれしたら嫌われるかな、

そろそろ結婚しなきゃかな、

お金貯めて海外行かないと置いてかれてるな、

 

みたいな、

変な心配ばっかり増えてる。

そんな気がする。

 

 


とくにわたし、真に受けやすいし…!

 


そういうわけで

「情報の断捨離」をしたいと思います。

 

 

一旦、SNSをみない環境にして、


スマホに依存してた時間を


子供の時みたいに

過ごしてみたいな。

 

 

宿題してた時みたいに

勉強したり

 

 

ピアノの練習をしたり

 

 

お手紙書いたり

 

 

絵を、描いたり

 

 

そうそう、何かに努力したり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「情報の断捨離」をしたら

 

さくひん

つくれるような気がする。

 

もっともっと集中しなきゃ〜。

つくりたい欲高まってるし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先日出会ったわんちゃんが

可愛すぎて可愛すぎて。

 

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彼も、欲望に素直に生きてる感じでした。

素敵。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


おわり

第16話 いごこちがいいひと

 


大阪に帰ってきて5ヶ月が経ちました。

 

大阪という都会にいると

人がいっぱいいるのが当たり前で
頭のどこかがマヒしてしまったのかなと思う。

 

 

分刻みでスケジュールが組まれてて
そこにぽん、と違うものが放り込まれると

また無意識に
分刻みのスケジュールを組む。

 


電車が10分に1本くるのが当たり前。
遅れたら謝れっていうのが当たり前。

 


人混みをかき分けて駅のホームを歩いて
満員電車の中で赤の他人との触れ合いがたまに
きもちわるい。

 

 

マヒするのも仕方ない、と思う。
全部真剣に捉えてたら
無駄に命を擦り切ってしまう。

 

 

 

わたしはそれが本当に嫌だったし、
今でも嫌だ。

 

 

 

 

でも、誰かが死んだ、というニュースには
いちいち心を痛めてる。

特に「自殺」には心を痛める。

 

 

 

心を痛めたってしょうがないし、
わたしはその人のことを知らなかったし、
救いようもなかったんだけど、

 

「自殺」のニュースには
中学生・高校生・20代
っていう情報がついてくるし
(もちろんその年代だけじゃないけど)

 

 

いつのまにかわたしは25歳になっていて、
みんな年下ということに気づく。

だから心が痛い。

 

 

 

 

 


ちょっと話は変わるけど、

いま、心療内科
カウンセリングを受けている。


心にできた悪いものはなかなか
剥がれてくれなくて
消化の仕方も知らないから


風邪ひいたときに病院に行って
よくわからないけど先生みてよ、って感じで


ちゃんと専門家に聞いて
悪いものを取ろうとしてる。

 

 


それがちょっと面白くなってきてる。

わたしが当たり前のように考えてた方法とか
思考回路はわたしだけのもので

 

「え、みんなそんな風に捉えないの?」

っていう発見がある。

 

 


人目を気にしたり
嫌われたくないなって思ったり

 

それは
人である限り何かしらの方法で
表現してると思うんやけど


わたしはそれが著しいらしい。

 

 

 

「多様性」ってこういうことか…
って感じながら受けてる。

 

 

 

 

 

 

ただその「多様性」は

たまに悪く攻撃してくることもあって。

 

 

 

 

都会で生きていると
心を閉ざさないと
悪いものがいっぱい入ってくる。

 

 

 

 

 

特に今はスマホから情報が簡単に得られて
あれがいい、これがかわいい、かっこいい
あれは悪い、これはださい、かっこよくない
って

知りたくもない情報がいっぱい。

 

 

 

 

 

 

今の、
わたしよりも年下の子たちは、
わたしが高校生だった時よりも
明らかに大変な世界で生きてる。

 

 


「簡単に死ねる方法」
とか
「自分を傷つける方法」
とか、または
「人を傷つける方法」
とか。


そんなものの答えはごろごろ
転がっているのに

 

 


「生きるってなに?」
の答えは
見つけられない。

 


なんとなく、わたしはそう感じてる。


わたしもたまにわからなくなる。

 

 

 

でも、
いろんなものを集めて

ひっくり返したり
横からみたりして考えると

 


「生きるのしんどいな」
って思う理由は

ほぼ100%の確率で
「ひと」が絡んでるはずで。

 

 

 

生きるのがしんどいな
と思った時に、
同時に頭にふっと浮かぶ「ひと」は
やっぱり何人かいて

 

自分で命を落としてしまった子たちに
そんな人はいたのかな
と思ってしまう。

 

 

 

 

 

 

わたしはずっと絵本作家になりたい!
と言い続けてる。
(いまはちょっとさぼってる。)

 

それは、
いつも一緒にはいられないから、

絵本なら
そばにいれるかなと思ったから。

 

 

 


そうそう。

わたしのユメは絵本作家で、

なんでかと言うと

ちょっと疲れた人がほっこりできるように
そばにいたいから

だった。

 

 

 

 


心を痛めながらそんなことを考えてて

じゃあこれから
一生懸命生きる子たちに
わたしが必要だなと思うことは

 


「死んでやる!」
を止めれるくらいのひと。

 


別に何も話さなくていいから、
ただそこにいて
一緒に紅茶を飲んだり
絵を描いたり
栄養いっぱいのご飯を食べたり
土にさわったり
空を見上げたり

 


そんなことができる空間が作れたらいいなあ

って最近、思った。


わたしがその子たちにとっての
「いごこちのいいひと」
になれるかどうかはわからないけども、


わたしじゃなくても
そのへんのおじちゃんとか
そのへんのおばあちゃんとか
動物でもいいかなって。

 

 

 

 


そのことを話したい。


わたしにも

いごこちのいいひとがいるから

また話聞いてもらおっと。

 

 

 

 

 

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おわり

第15話 きょうかんじたことがたくさんある

 

休日の今日。

 

 

いただいたお野菜でサラダを作った。

 

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大根、きゅうり、ラディッシュ、玉ねぎ。
自分で買ったのはたまごのみ。

 

 

 

 


新鮮であること。

それはもちろん美味しく感じる1つの理由だけど、

 

作った人の顔を思い浮かべながらいただくこと。

それ以上の理由はないような気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お昼には、

広江ままと一緒に高田東中の参観へ。

 

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「教師」という職業を志していた自分。

どんな先生になりたかったんやっけ。

 

 

 

 

 

黒板の前に立つ先生方をみて、うらやましいと思った。

 

ほんとうは、

あんな風になりたかったはずなのに。

 

 

 

教員時代、楽しいって思いながら

授業ができなかった日が続いた。

 

それが一番つらかった。

 

 

 

 

憧れが強すぎる志だったのかもしれないな。

 

 

 

 

 

 

 

 

広江ままは、

陸前高田の米崎小仮設に行くといつも

お世話になっている3児の母。

 

今日もずっと前から誘ってくれていて、

ランチの時にいろんな話をした。

 

 

 

 

 

 

共感してくれたり、

「うん、うん」って聞いてくれたり、

過去のことを笑い飛ばしてくれたり、

心地よかった。

 

 

 

 

あー、そっか。

 

仕事は楽しいし暮らしも慣れてきたけど、

心のどこかで「聞いてほしい」って

思ってたんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そのあとは、

フォトジャーナリストの安田菜津紀さん講演会。

 

 

カンボジア・シリアでの取材を通して

なっちゃんが伝えたいと思ったこと。

 

 

 

 

 

小学生もいる中で

こどもたちがわかる言葉をつかって、

でも、

確実に伝わるように選ぶ言葉の1つ1つに

すごく引き込まれた。

 

 

 

"仕事"に対する姿勢に心が震えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしが初めて

カンボジアに行ったのは19歳のとき。

 

 


遅かれ早かれ、

カンボジアに行く夢は叶えていただろう。

 

けれど、今日、

彼女と一緒に行けたこと、

2012夏のメンバーと一緒に行けたこと、

それが重要だったんだと思った。

 

 

 

 

 

 

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あの時出会った"ココナッツおじさん"。
両足義足のおじさんは、

ひょいひょいと木登りして

ココナッツをとってくれた。

 


天然のポカリスエットと言われるくらい

栄養のあるココナッツを、惜しみもなく

外国から来たわたしたちにくれた。

 

 

 

 

 

 

カンボジアに行くまでの

地雷・貧困・スラム・内戦…

っていうイメージが

全部取り除かれたのは

ココナッツおじさんの笑顔をみたときだった。

 

 

 

 

と、同時に「なんで?」が残った。

 

 

 

もしわたしがおじさんの立場だったら、

多分、人に優しくできない。

多分、そんなに強く生きれない。

 

 

 

 

 

もやもやが晴れないまま月日は流れ、

なっちゃんのご縁のおかげで

陸前高田に通うようになった。

 

 

 

 

自然いっぱいの環境、

海の幸、

人々の笑顔。

 

   

 

 

 

 

陸前高田での時間は

カンボジアで感じた「なんで?」を

解消してくれた。

 

 

 

 

 

自分のものさしだけで

人の辛さや大変さを決めつけていた。

 

 

 

あの「なんで?」は、

 

 

「なんでこんな大変なのに…」の、

「なんで?」だった。

 

 

 

 

知らない間に

そんな人間になっていたことを恥ずかしく思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

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「うごく七夕まつり」に向けて

荒町祭組は準備が進んでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

「さえこはもう荒町の人間だ。」

 

とても、嬉しかった。

 

絶対たのしい夏にしようと決意した。

 

 

 

 

 

 

 

 

震災前ほど人が集まらない作業。

 

仕事終わりに集まる人たちの

疲れが目に見えてわかる。

 

ため息をつきながらやることもある。

 

 

 

わたしは震災前を知ることはできない。

 

 

 

 

 

 

でも、

 

 

七夕が大好きな人たちを知っているし、

その人たちのことが、わたしは大好きだ。

 

 

出会うことができて

本当に幸せだ。

 

 

 

もう少しがんばれないか、自分。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

長くなった。

 

でもわたしたち人間は、

いや、少なくともわたしは、実は、

1日でいっぱい考えている。

感じている。

 

 

 

 

 

 

 

そのこと1つ1つを

もうすこし大事にできないのかな。

 

 

 

 

 

 

詩を書くのはそのせいだ。

 

 

 

詩とか書いてますっていうと、

 

「ポエマー的な?(笑)」

って、

(笑)がついた返事をもらうことがある。

 

 

一応笑って返してみたりしてる。

 

「あはは、あんまり読む機会ないですよね」

みたいな。

 

 

 

 

 

 

 

音楽とか美術全般とか詩とか、

お金の価値で比べるとぴんきりだけども、

 

ほんとうの価値はそこじゃないと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしが詩を書きたいと思う理由は

 

今日感じた
たくさんのことが
川の水のように流されていくのが
とてももったいないと思うから。

 

 

 

いままで出会って来た「あなた」のひとりひとりが、

わたしの詩をよむことで
ちょっと元気になったり
ちょっと嬉しくなったり
ちょっと考えてみたり。

 

 

そういう時間を創ることができたら、

それ以上のよろこびはないから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そうだ、そうだ。

 

詩、書きたい。

 

 

 

 

 

 

 

今日感じたこと。

 

ほんとはまだまだあるけど、

このへんにしときます。

 

 

 

 

とりとめのない話を

とまることなく。

 

 

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「ベートーベン」

 

わたし、
ベートーベンとともだちになりたい

 

音楽室に飾られた あなた

 

三大ソナタを創った あなた

 

死んでしまったいまでも
"全世界に感動を与えている" あなた

 

あなたってすごいのね

 

でもねベートーベン
わたし、思うの

 

知らない人に
しかめっ面みられるの恥ずかしいよね
他の人と並ばされてさ

 

「悲愴」「月光」「熱情」
って名前がついたのよ あなたのソナタ
言葉どおりなのかしらね

 

聞きたいの
ほんとうのことを
ともだちになって聞きたいの

 

寄り添ってみたいの


あなたの世界に
わたし、はいりたいの

 

でもねベートーベン
わたし、わかってるの


ともだちにはなれないってことも
ほんとうのことを聞けないことも

 

ただあなたのソナタ
わたし、
とっても惹かれているの

 

ベートーベンは

わたし、と

ともだちになりたいかな