下町のえんぴつやさん

綴る作業をするたびに気づく、内向的なわたし。

第19話 お父さん

 

音楽を聞いて泣くことがある。

失恋ソングに共感したり、クラシックのメロディの美しさに感涙することもある。

 

 

昨年の秋ごろ、Funkistの染谷西郷さんのアコースティックライブに行って"Hello"という曲に出会った。

 

「僕は照れながら言ったんだ 「パパだよ」って」とか

「どんな時も いつまでも 僕は君の味方でいるから」とか

っていう歌詞があって、親が子を想い、愛する気持ちを容易に想像することができる。

 

 

 

初めてこの曲を聞いたとき、わたしは泣いたんだけど、ただ感動して出す涙ではなかった。

息ができない類の、苦しい涙。

わたしはその理由を本当は知っていたし、だからこそ、今まで避けてきたように「なんでこんなに泣いてるのか」考えるのをやめた。

 

 

 

 

 

 

 

5年前、父が亡くなった。


「父はもう亡くなっていて…」と言うと「あっ、ごめんなさい!」となるので(自分も逆だったらそうなるし)あまり人には言わないようにしてる。

わたしが9歳のときに両親は離婚して、家に父がいないことには慣れている。
ただ、西加奈子さんの「こうふく みどりの」から表現をお借りすると、“「おるのにおらん」のと、「おらん」のとでは、違う。”


例えば生徒と話してるときに出てくる“お父さん”という言葉と、わたしが父を呼ぶ時のそれとは異なっていて、

わたしは5年前、父とは永遠に会えない現実をこころの奥にしまい、結果的に「お父さん」と呼ぶことを封印した。

父は帰って来ない。
呼んだところで父には会えない。
頭で理解していても、こころが理解を拒んでいた。







わたしは父のことが大好きだった。

母は優しさ故の厳しい雰囲気があり、それがわたしを緊張させるので、トトロみたいに大きなお腹を揺らして笑い飛ばしてくれる父のおおらかさが好きだった。
父との時間の中で、子どもながらにいごこちの良さを感じていた。


よく家族で出かけていたし、旅行にも連れて行ってもらった。お母さんが作ったご飯を家族で囲み、たくさん食べてたくさん笑った。誰から見ても幸せな家族だったと思う。

「いつか反抗期がくるから」と言われながらも父がいる日は一緒にお風呂に入っていたし、寝付くまで隣にいてもらうことが日常だった。

 

 

父はバスの運転手をしていて、夜行から帰ってきた日は1日家にいた。

学校から帰って誰かいることが嬉しくて、それが父だと更に嬉しかった。

すぐ宿題をしなくてもいいし、気兼ねなくアニメを見れるから。

なんていうか、自由だった。それだけだった。

 

それだけ、と言いつつ、その母の厳しさと父のゆるさのバランスはわたしにとって必要なものだったんだと思う。

 




ある時から父と母の間に亀裂が入り、喧嘩が増えた。

私と姉は何も出来なかった。

暗い寝室で、畳の重なる部分を見つめながらその声を聞いていた。

父は怒鳴り、物にあたった。
父の声は地響きのようで、
だからわたしは今も男の人の怒鳴り声が苦手だ。


父の浮気と、借金。離婚を決めた母。
その時の母の気持ちを考えるといたたまれない気持ちになる。

40歳手前にして、
まだ小学生だったわたしと
中学にあがる直前だった姉、
買ってまだ5年のマイホームのローンと
飼い犬のしつけと
取ったばかりの資格で仕事が変わって必死だった。


そんな重い荷物を抱えてでも離れたかった。

わたしはこんなもんじゃない、というような執念もあったと思う。


数日続いた喧嘩のあと、父は帰ってこなくなった。
9歳だったわたしは「リコン」がどういうことか、そもそも「ケッコン」もわかっていなかった。

 


その後、父とは1年に1,2回会った。
焼肉とかお好み焼きとか、父の好きなものを一緒に食べて、何を話したかも覚えていないけど

「わたしたちは、特にわたしは大丈夫です」

というアピールをしていたと思う。

父なりに愛情をもって会ってくれていたのだろうけど、だんだんと何を話せばいいかわからなくなって、会うのが気まずくなった。

「会ってあげてる」という感覚だった。

 


そんな中、わたしが小学6年生くらいの時、再婚したことを告げられた。

白髪だらけだった髪が黒くなっていた。

 

「人を好きになる」ということがどういうことかわかってきていたし、よく母が父の白髪染めをしていたけど、他にしてくれる人ができたんだなと思った。

素直に祝福はできなかったけど、わたしたちはもう3人で家族をつくっていたし、引き留める理由もなかった。

わたしはあのときちゃんと、父の幸せを願っていた。




わたしは両親が離婚した当初、友達にそれを話さなかった。

「苗字変えたらいじめられるかもしれないから。」
たしかそう言った母の言葉を真に受け、いじめられないように明るく元気に過ごすようにした。

勉強もできる方だったし、友達も多い。
ピアノだって続けている。
大丈夫、ばれてない。

根拠のない「大丈夫」を糧にわたしは毎日がんばっていた。
お父さんがいなくても全然問題ない、だから何も変わらない。



そんな矢先のこと、「新婚さんいらっしゃい」という番組に父が出演した。
わたしは見ていなかったけど、そのせいで、両親の離婚がばれた。

父は身体が大きく、父のことを覚えている友達は多かった。

隠し続けてたことが、思わぬ形でばれてしまった。

 

友達はいじめるどころか心配してくれた。
「気付かへんでごめんな。」とまで言ってくれた。



父が大嫌いになった。
誰にお願いされた訳でもないけど、守り続けていた秘密を、意図せずばらされて本当に大嫌いになってしまった。

父を好きと思う気持ちは忘れ、周りと比べることが増えた。

勝手に家を出た父を嫌ったし、憎いとさえ思った。


携帯を持つようになって連絡が取れるようになると、会う回数は更に減った。
自分の日常に、父の存在はもうなかった。






大学生になって、少しだけ意識が変わる出来事があった。


フィリピンとカンボジアに行き、スラム街に住む人たちと交流する機会があり、インタビューに応じてくれたお母さんが
「お金はないけど家族がいたらいいのよ。家族の笑顔がわたしの幸せなの。」
と話してくれた。


そんなふうに家族を捉えたことはなかった。
いて当たり前、と思ってることに気付かされた。


ないものばかり探していた。
父がいない、塾にも行けなかったし、旅行も行けてない。
全部お父さんのせいだった。

お父さんが出ていったから。お父さんが浮気したから。


でも、大学まで行かせてもらって、衣食住が整っている。

これってすごく恵まれているし、ありがたいことだった。


そうすると、お父さんは関係ないしちゃんと会わないとなあと思った。
定期的に連絡くるし、会っといた方がいいよな~、そんな感じだった。


早速、父に海外に行ったと伝えると、
「そうかあ、さえはすごいなあ。」
そうやって聞いてくれた。

父はいつも褒めてくれた。
褒めて欲しさに、褒められることしか言わなかった。
大嫌いなくせに、父に甘える自分は幼い頃のままだった。









「お父さんな、病気やねん。もう長くないねん。」
と父が告白したとき、わたしたちはお好み焼きを食べていた。

(こんなこてこてのもん食べといて、病気て言われても。)
と思ったのが最初。


「へえ…なんの病気なん?」

「なんかなあ、腸がやぶけてしまってんねん。」

「え、こんなお好み焼き食べてていいん?笑」

「いやあかんねん、でもさえはお好み焼き好きやろう?」


呆れた。
お好み焼き好きなんはお父さんやんか。




病気やのに焼肉とかお好み焼きとか食べたらあかんやん。
野菜とか食べなあかんのちゃうん。
そんなふうに心配はしたけど、わたしは自分の日常に没頭し、その合間に「入院した」「退院した」を繰り返し聞いた。

 


頻繁に連絡がきていたのをあの時は「またかー」と思っていたけど、父は寂しかったのかもしれない。
でも新しい家族おるやん、と線引きしている自分もいて、

優しくなれない自分がもっと嫌になって、父との心の距離を遠ざけた。
「新しい家族おるくせに、」と思うことで、何かから逃げる言い訳にしていたように今は思う。

思い返せば、父の頭は白髪で真っ白だった。

孤独だったのかもしれないな、わからないけど。

 

 

 

 

 






大学4回生。
卒論を書き終えた頃、また「入院した」と聞いた。

今回は長いかもしれへん。
出られへんかもしれへん。

そんなふうに言っていた。


わたしは卒業旅行とインターン活動のことでいっぱいいっぱいで、「お見舞い行かなあかんなあ」と思いながらもまた今度、また今度と後回しにしていた。



3月19日、大学の卒業式があった。
お母さんの振袖と緑色の袴。

おばあちゃんも泣いて喜んでくれた。

 

 

お父さんも喜んでくれるかな。
「卒業したよ」と写真を送ろうと思って、でも体調がよくないと言っていたのを思い出して、また今度、とそのまま忘れてしまっていた。





 

母の携帯に
「あやちゃん(姉の名前)とさえちゃん、
そろそろ病院来た方がいいと思う」
と連絡が入った。

 

5年前の3月21日。
連絡をくれたのは、両親が離婚する前まで一緒に旅行に行っていた家族のパパだった。

病院に着いて連絡すると、

病室わからんやろう、ちょっと待っときやあ
ってそのパパが言うので、待っていた。


迎えに来てくれるまで、時間が長く感じた。

15分とか、それくらいだったんだけど、すごく長かった。

 

病院のベンチに座って、足をぶらぶらした。

緊張したときの、癖。

 

 

パパに会ってからも、久しぶりやなあ、と声をかけることもできなかった。

沈黙のエレベーター。

廊下を歩くスリッパの音。

わたしたちがなぜ呼ばれたのか薄々わかっていたけど、理解した。

 


病室に入ると、「横たわる」という表現がぴったりの父がいた。
涙目でわたしを抱きしめる、父方の親戚。


「お父さん、死んだんや。」
残酷にも、たしかにそう思った。

 


死に目に間に合わなかったのではなく、死に目に間に合わないようにしてくれた。

とても言いづらそうに、
「めっちゃ苦しんでてなあ……
あやちゃんとさえちゃん呼んだら
僕が後悔すると思ったんや。」
なんか、パパにはそういうことを言われた。

医療のことはわからんけど、もう少しマシな最期にできひんかったんかと、パパは今でも話してくれる。



死んだばかりの父の顔は少し黄色く
何か言いたげに口はうっすらとあいていた。

父方、母方共に祖父は亡くなっていたので、別れには経験があった。

それでも我が父となると訳が違う。

ドラマみたいに「お父さん!」ってかけよることもできたんだろうけど、そういうことができるくらいわたしと父には思い出がなかった。

そっと父の手に触れると、まだあたたかかった。

 

ぎゅっと握っても動かない。

動揺した。


動かなかったことにではなく、わたしは父の手のぬくもりの記憶がなかった。

 

いつもよりあたたかいのか冷たいのか、わからなかった。

 

 

でも、悲しかった。

涙が止まらなかった。

 

裏切った父をほんとうに憎んでいたし、

でも大好きだったことも事実で、

 

その感情はあまりにも、複雑過ぎた。

 

 

 

両親が離婚した9歳の頃から、わたしは事実だけを受け入れて、感情を置き去りにしてきた。

 

もう絶対に開かない目にむかって、卒業式の写真を見せてあげた。

もう一度手を握って、頬に触れて、それからお通夜でもお葬式でも父に触れることはなく、父は空に昇った。

 

 

 

 

 

 

 

 

楽しい、嬉しい、幸せ!と思う気持ちは人一倍大きいくせに、でも「絶対続かない。」と思っている自分がいる。

 

そんな尊い幸せな時間を、自分から終わらせる時もある。

 

誰かとお付き合いすると特にそう。

わたしは、大事にされればされるほど自分から離れる変なやつだ。

 

父が離れていったことは私の中でトラウマになっているようで、「幸せは続かない」という固定観念がある。

 

 

 

 

今まで何とも思ってなかったはずの両親の離婚が、自分にとって根深くこころに突き刺さっていて正直どうしようもない。

 

どうしようもないけれど、どうにかしようとする必要もないのかな、とか思ったりする。

わたしは父の愛情を知らないというか覚えてないし、知る機会ももうない。

 

 

 

冒頭に書いた"Hello"を聴くとあんなにも苦しい理由は、

お父さんという存在はこんなにも娘のことを想うことができる人物である

ということを知ったからだと思う。

 

そんなふうに愛されてる西郷さんの娘さんが羨ましくて仕方がない。

そんな幸せな光景がずっと続けばいいと思うし、同時に壊れないか不安でいっぱいになる。

 

 

 

 

父が亡くなってからの5年間、「しんどい」と言いながら、この先に幸せが待っている!と信じて走り続けていたような気がする。

何かを追いかけるように、そして何かに追われるように走り続けていたけど、

どうがんばっても幸せには辿りつかないような気がして諦めたくなっていた。

 

 

 

でも毎年この時期に「いのち」について考えるきっかけがあって、それが自分のお父さんだと考えると、諦めるのは少し違った。

 

5回目にしてちゃんと向き合うと、わたしが望んでいた、ほしくてほしくて仕方なかった「幸せ」はたくさんあった。

 

 

 

家族がいること。

仲間がいること。

友達が笑ってること。

友達の子どもたちが元気に育っていること。

生徒たちが心を開いてくれること。

 

わたしはそんな大切な人たちを思う存分抱きしめることができること。

 

 

誰かの愛情とぬくもりがほしくて探し求めていたけど、愛情もぬくもりも、わたしの中にちゃんとあった。

大切な人たちを抱きしめるように自分を大切にするっていう、

そんな単純なことに、27歳にしてやっと気づいた。

 

お父さんからもお母さんからも、ちゃんと愛情をもらってわたしは育ってきた。

 

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父との写真はものすごく少ない。

でも、2歳を迎えたばかりの小さなわたしを見守るこの父をみつけたとき、

複雑に、針金のように絡み合ってとれなかった感情がほろほろとほどけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

まだ、お父さんのことについてこころの整理はついていないけど、

5年目にしてやっとこんなふうに書くことができるようになって、

おだやかに3月21日を迎えられそうです。

 

そういえば昨日、生まれてから10000日を迎えました。

20000日も無事にむかえたいなあ。

 

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ほんとうは明るくておちゃめなわたし。

もう悲しすぎる涙は流したくないなあ。

どうせ泣くなら、感動して喜んで泣いていたいなあ。

 

 

 

 

 

 

 

数日前、帰り道に流れ星をみました。

豊能町の柔らかい黒い空に、すーーっと流れる流れ星。

 

「住みたい!」と思って思い切って引っ越してきたこの町が

わたしにとって少しずつ大切な場所になりつつあります。

誰に似たのかわからないこの不思議な感受性をはぐくみながら、

落ち込んだり、幸せをみつけながらゆっくり生きていこうって、思っています。